庄内ボーイズ・活動日誌

山形県庄内地域で活動する野球チーム『庄内ボーイズ』の活動内容です

大リーグスプリングキャンプ

   大リーグスプリングキャンプ

 

 「俺の機械(吉田式ピッチングマシン)を大リーグが見たがっているそうだ。その時はフロリダに一緒に行くか!?」と吉田社長から電話が入ったのは1988年1月下旬。翌月26日、吉田社長と私は成田空港を飛び立ち、アメリカ・フロリダ州へと向かっていた。

 ロサンゼルスでアメリカ側代理店と合流、セント・ルイスを経由し、フロリダ州タンパの空港に降り立ったのは鶴岡を出て、すでに31時間を経過していた。

 翌日、すでにタンパに運んであったピッチングマシンをレンタカーにピックアップ。いよいよ大リーグ球団へのデモンストレーションの旅が始まった。

 大リーグ26球団(当時)のスプリングキャンプはこのフロリダ州(オーランド・ベロビーチ・マイアミなど)に18球団が集結して“フロリダ・グレープフルーツリーグ“を形成している。

そんな中、デトロイト・タイガースを皮切りにロサンゼルス・ドジャースまで8球団を周ることになった。マスコミ関係者が厳しい規制で切歯扼腕する中、私たちはどの球団でも厚遇され、球場内・オフィス内をかなり自由に歩き回ることができた。目から鱗とはこのことか。すべてが新鮮な出来事であった。

 スパーキン・アンダーソン監督(タイガース)、ピート・ローズ監督(レッズ)、デーブ・ジョンソン監督(メッツ)やボブ・ホーナー選手(カージナルス)、ドン・サットン投手(ドジャース)らと一緒に写真を撮り、気軽に話をすることができた。

 初めて目にするアーム式ピッチングマシンにメジャーリーガー達は興味津々であった。またそのコントロールの良さに驚くばかりであった。アメリカ製回転式ピッチングマシンはお世辞にも褒められたものではなかった。ただ、そのお陰で学ぶことも多かった。それはマシンのコントロールに問題があれば日本なら、「もっと上げて、下げて」「もっと右へ、左へ」とマシンを操作している人に注文を付けるであろうが、ここでは自らがボールの来るところに移動していた。打席に立つこと=打つこと。人にストライクを投げてもらって(待って)打つことではないことに気づかされた。

 多くの選手が吉田式ピッチングマシンを試打に来た。私は、マシン操作をしながらそのスイングに感心するばかりであった。しかし、私が一番印象に残ったのはドジャースのサットン投手である。彼はバントの練習に打席に立った。丁寧に、丁寧に一塁側へ、三塁側へゴロをころがしていた。その間、無駄な動作は一切なく真剣そのものであった。

 そして、「サンキュー!サンキューベリーマッチ!!」といい、何と私と一緒にボールを拾い出した。他の選手は「サンキュー」とはいうものの打ち放して出て行った。超一流と一流の違い?を見た気がした。

 あれから32年、吉田さんのマシンが庄内ボーイズのグランドに降り立った。7月30日のことである。私にとっては昔の思い出と共に忘れられない日となった。