庄内ボーイズ・活動日誌

山形県庄内地域で活動する野球チーム『庄内ボーイズ』の活動内容です

飛び出せ海の外へ

             飛び出せ海の外へ

     ―佐々木麟太郎選手へのエールー

 

 花巻東高校・佐々木麟太郎選手のスタンフォード大学への進学が決まった。世界第2位の超名門校(2023年、東京大学39位)である。海外の大学での文武両道の道とはなんと素晴らしい選択だろうか。世界のトップ大学が日本の高校球児を高く評価したことは誇りである。アメリカの懐の深さに今更ながら感心する。同時に日本の大学は、国内最高選手の「海外流出」を防ぐことができなかった。

  日本の高校を卒業後、アメリカの大学でプレーを続けている学生は結構いると聞く。

  彼らが一堂に戸惑うのはプレーそのものではなく「学業」にある。一定の単位を取得できない場合、容赦なくプレーを中断させられる。いくらベースボールの技術に優れていても学業が伴わないとアメリカの大学ではプレーできない。あくまでも学業優先のようだ。

  日本の大学野球に目を向けてみよう。最近の大学野球の隆盛は目を見張るものがある。特に地方大学の野球部の躍進は著しい。これは学生の定員確保つまり経営戦略の一環でもある。子どもや野球人口が減少傾向の中、大学はといえば2023年現在、国公立私立合わせて793校(2,000年:649校)ある。大学にとって学生数確保は最優先課題であり、野球部員の獲得は定員確保の一役を担っている。他のスポーツに比べるとメディアの扱いも大きく、大学選手権など活躍は全国区への仲間入りの絶好の機会である。

  地方の大学は学校の近くに素晴らしいグラウンドを有し、室内練習場や寮などの恵まれた野球環境で選手を迎え入れている。特に高校時代不完全燃焼に終わった?選手たちは伸び伸びと「野球だけ」に専念できる。

一方東京六大学、東都六大学など知名度のある大学には中央・地方から有能な選手たちが挙って集結する。しかし都心の大学は決して恵まれた野球環境ではない。多くの大学では学校―グランドー寮の一体化は困難である。十分に選手の能力を伸ばす環境にはない。多くの有能な選手がその才能を伸ばしきれないのも現実である。

  学生の本分である学業はどうか。総じて日本の大学野球選手はアメリカの大学野球選手に比べ学業に対する取り組みが希薄のようだ。日米のアスリーツ学生の成熟度の違いを感じる。日本のアスリート学生にはスポーツさえやっていればいいというアナクロニズムが未だ色濃く残っている。

  日本の大学スポーツ界は学業に対する考え方を今一度考え直さなければ世界の潮流から取り残されるだろう。大学スポーツ部の薬物問題が浮上している今、同時に学業を軽視したスポーツ活動への偏りの是正は必須項目である。

  佐々木麟太郎選手は未知の世界に飛び込もうとしている。そのチャレンジ精神に拍手を送りたい。また彼はSNSなどでかなりの誹謗中傷を受けていたと聞く。こうした妬み僻みの感情でしか表現できない島国から脱出し、その才能を遺憾なく発揮して欲しい。

  居心地の悪い日本からこれからも多くの有能な若者が海の外を目指すことだろう。彼らに失敗など何一つない。これから経験するすべてが人生100年時代を生きる糧になるのだから。

                                                                      2024.2.4 BY佐藤繁信

監督就任後最短での甲子園出場 

        監督就任後最短での甲子園出場     

 

 1972年5月8日(月)晴れ。グランドには2日前の春季高校野球千葉県大会で敗退し、憔悴しきっている部員たちがいた。しかもその試合は相手投手のボールをバットに当てることすらできないという完敗であった。そんな活気のないグランドにゆっくりとその人は現れた。石井好博さんである。5年前、第49回夏の甲子園優勝投手石井好博さんが母校習志野高校のグランドに帰ってきた。その瞬間グランドの空気は一変する。それは歓喜というよりもむしろ安堵に近いものであった。

 前年秋の県大会。新チームは対外試合を20勝5敗と大きく勝ち越した。そんな秘めた自信を胸に県大会に臨んだ。二回戦6対2とリードし9回2死ランナーなし。あと1人の場面で大逆転負けを期す。選手達は何が起きたかわからず、奈落の底に突き落とされる。

 試合後のミーティングで監督の口から出た言葉は「二年生はもういらない!」

この言葉に二年生は即座に反応、「シタッ!」(お疲れさまでシタッ)と言い残し、その場を立ち去った。

 翌日から2年生は誰一人グランドに現れることはなかった。学校を辞めよう。転校しよう。懊悩する部員もいれば、ルンルンと自動車教習に通う者もいた。

 一方、強力なメンバーがそろっていた1年生は喜んだ。目の上のたん瘤が自然消滅したのである。1年生チームはその後の練習試合で上級生の強豪チームにも何ら臆することなかった。連戦連勝を重ね、我が世の春を謳歌する。

 

 悶々とした日々を過ごす2年生を見かねたのは越川道弘部長である。その間越川先生はあらゆる手段を尽くしてくれたのだろう。1か月も過ぎた頃「グランドに戻れ!石井君を呼んでくるから2年生はグランドに戻りなさい」越川先生から天の声が届いた。「信じよう!先生を信じてまた野球をやろう!」

 そうは言っても監督との確執はそうたやすく消えるものではない。2年生は1人、また1人とグランドに戻ったものの日々ジャージ姿での球拾い。練習といえばランニングのみであった。傍らで1年生は元気に野球をエンジョイしていた。数日後2年生は監督の「復帰ノック」を受けることになる。それは本人のみならず1年生さえも涙する凄まじいものであった。 

 入学時30人程いた部員はいつしか14人に、そしてこの事件をきっかけに8人となった。

 耐えるしかなかった「石井さんがグランドに戻ってくる」ことを信じて。

 石井さんは内定していた就職先を辞退し、教職課程を取るために留年、大学5年生であった。グランドに足を踏み入れてくれたとはいえ、監督でもなければ勿論部長でもない。このままでは夏の県予選のベンチに入ることはできない。ただ監督と衝突しないか?最後まで練習をみてくれるだろうか?明日は来てくれるだろうか!?3年生になった8人の心は石井さんのベンチ入りを願い日々揺れ動いていた。

 6月29日(木)石井さんのベンチ入りの報が飛び込んできた。越川部長が自ら身を引き、監督が部長へ、そしてここに「石井好博監督」が誕生する。

 7月15日(土)第54回千葉県高校野球大会開幕。石井監督率いる習志野高校はBゾーンを勝ち上がり、東関東大会(千葉県―茨城県)へと勝ち進む。31日(月)の決勝戦、強豪銚子商業を撃破、155校の頂点へと駆け上がる。石井投手を擁し全国制覇した49回大会以来5年ぶりの甲子園出場を果たす。

 「あの石井が帰ってきた」「学生監督石井」「兄貴監督」マスコミは挙って称賛の声を上げた。

 翌年「習志野にいけば銚子商業を倒せる」そんな強い思いを胸に入学した選手は3年後、宿敵銚子商業を倒し甲子園へ、そして全国の頂点へと駆け上がる。ここに105年の高校野球の歴史の中でたった1人の夏の甲子園優勝投手―優勝監督(母校を率いて)が誕生する。ここにもう1つ付け加えて欲しい。監督就任後最短での甲子園出場と。

 

 2023年11月26日、石井好博監督が74歳という若さでこの世を去る。

           2024.1.19

                                                 By佐藤 繁信

 

*追伸:前監督は習志野高校を2年後に転勤、翌年この世を去っている。その知らせを聞いた当時の三年生8人は大粒の涙を流し、別れを惜しんだ。