庄内ボーイズ・活動日誌

山形県庄内地域で活動する野球チーム『庄内ボーイズ』の活動内容です

内なる戦い

           内なる戦い

 仙台育英高校の全国制覇は長い高校野球史の中でも特筆すべき出来事である。白河の関を越えたこともそうであるが、それ以上に高校野球で球速140㎞を超す投手を5人も擁し優勝を成し遂げたチームは今までなかった。報道によるとベンチに入っていない中にもそのレベルの投手がいるのだという。驚きである。

  下関国際高校の投手は初回から明らかに連戦連投の疲れが感じられた。一方仙台育英の先発投手は躍動感に溢れていた。それもそのはず、この投手は地区予選では一試合も登板しておらず、甲子園でも決勝戦までわずか120球程しか投じていなかったのである。それでも甲子園の決勝の先発という重責を任せられるだけの信頼がチーム内にはあったのだろう。

 長い甲子園の歴史の中でもこうした投手が決勝戦で先発することは稀有な出来事ではないだろうか。

 仙台育英高校の甲子園での戦いを目の当たりにして、自分の高校時代を思い出した。

 チームには後にプロ野球を代表する掛布雅之君という素晴らしい選手がいた。一学年下であること、仲が良かったことなどもあり、投手の私は一本バッティングの時など必死に彼を打ち取ることに集中した。またチームに同じような力を持つ選手が4〜5人いたこともあり、彼らを打ち取ることは至難の業であるが同時に楽しみでもあった。そこには他校との試合以上に燃えるものがあった。

 その時は知る由もなかったが、そうした状況が相乗効果となり、チーム力が著しく向上していったことは事実である。お互いの技術力を高めるにはチーム内の競争が最も近道である。こうした意識の高まりにより、どんな強豪校との試合でも相手を恐れることはなくなり、瞬時に相手打者の力を見抜く感性が磨かれた。

 試合ほど楽なことはないと感じることができるようになった。

 仙台育英高校は甲子園で恐れるチームは無かったのだと思う。自チームでの紅白戦にこそ真の戦いがあったのだろう。打者は5人のいやそれ以上の球速140Kmを投げる投手を打ち込まなければレギュラーを勝ち取れない。投手はエースを勝ち取るためにどのようにしたら打者を打ち取ることができるのか。速いボールだけでは通用しないことも悟ったと思う。多くの学びの中からこのような素晴らしい投手陣が育ったのだと思う。そこには野球の巧拙を越えたメンタルの強さも自然発生的に生まれ、より強固なチームになったことだろう。

 100年の歴史を変える偉業を目の当たりにし、ひとりの投手が悲壮感漂わせすべての試合を投げぬく姿を美談とした時代は終わったと感じた。なぜか肩の力が抜けるのを感じているのは私だけではないはずだ。          

                         2022.8.31  By 佐藤 繁信

背番号18

           背番号18

 

 8月29日(金)東京ドームで行われた第93回都市対抗野球大会横浜市ENEOSが二連覇を狙う東京ガスを5-4で降し、9年振り12回目の優勝を果たした。9回表に登板したENEOSのエース柏原史陽投手は5連投ながら最後の打者をショートゴロに打ち取り、決勝戦不敗神話は続いた。

 柏原投手の躍動感あふれる投球フォームは優勝投手にふさわしい美しさがあった。ただテレビで観戦した私にはそのユニフォームの背番号「18」が眩しく、灌漑深いものとして映った。

 

 私の部屋には背番号「18」の「NISSEKI」(ENEOSの前身)のユニフォームが飾られている。日本石油の投手として7年、マネージャーとして9年。そしてコーチとして…。神奈川県下では野球関係者から一目置かれたもっとも有名なマネージャーでもあった彼が着ていたユニフォームである。大久保秀昭監督の信頼も厚いと聞いていた。

 彼は突然の病でこの世を去った。46歳であった。

 私は彼の野球の技術はもとより人間性を高く評価していた。彼の訃報を聞いた時のショックは計り知れない。大きな心の財産を失った気がした。

 

 優勝の歓喜を爆発させる選手の姿が画面に大きく映しだされている。興奮冷めやらぬ選手、涙する選手もいる。ただそこに彼の姿、笑顔はなかった。いくら探してもあの輪の中のどこにもいなかった。

 こんなに嬉しくて悲しい優勝を今までに経験したことはない。

                             By佐藤 繁信

                             2022.7.30


                         

 

人生は思うに任せぬ

      人生は思うに任せぬ

 

 長年コツコツと集めた書籍が存在感を失いつつある。きちんと整理されたスクラップブックも色あせてきた。私以外には無用の長物であろう。それでも私にとっては自分史の重要な1ページである。そう簡単にこの領域を侵されてはなるまい。しかし、年齢を重ねた今、自分だけの問題ではなくなった。家族にとってはただのガラクタなのである。

 知人からこんなメールが届いた。「先日泣く泣く歴史本や小説を処分。古書店の査定はほぼ無価値!本がかわいそうでしたが・・。そのうち野球本も・・・と覚悟していますが切なくて!」

 博物館や図書館に寄贈などそれなりに行き先が決まればいいがほとんど廃棄の憂き目となる。

 その後「とうとう60年間ため込んだ高校野球スクラップ、雑誌を処分しました。諦めの心境でした。脱力感、寂寥感にやや落ち込んでいます。人生なかなか思うようにはいきませんね」

「人生なかなか思うに・・・」この時私の脳裏にある人物が浮かんだ。

 1980年代に9冊もの野球技術書を著し、それまでの野球界の謬見を改め、科学や物理を野球動作に取り入れた「科学する野球」の村上豊氏である。村上豊氏の理論をプロ野球界は勿論、野球経験のある指導者は全く受け入れようとしなかった。自分たちのやってきたことを真っ向から否定するその理論を素直に受け入れる勇気を持たなかった。受け入れたのは野球経験のない人たちで、その理論というより「道理」に賛同したのであろう。

 私は村上豊氏の切歯扼腕する日々を近くで見てきた。その時に放った言葉が今尚忘れられない。

 「私は億万長者になれるか!?」

 しかし、その言葉から一年足らずでこの世を去った。

 すると至るところでその理論を引用した文章を目にするようになった。人生の皮肉さを感じた。

 人は誰でも自分の生きてきた証を残したいと願うものだ。そしてその評価を期待するのも当然のことである。しかし人生は思うに任せぬようである。

楽しみを見出し、努力を惜しまず、他人に迷惑をかけず歩もうと思う。

                           By 佐藤 繁信

                              2022.7.12