いいでんよ!
ブルペンの後方は4メートルほどの土手になっていた。その土手の上に会社帰りであろう熱心な高校野球ファンが数人見学している。その中に小柄ながら恰幅のいい、太い黒縁の大きめなメガネのオヤジさんがいた。ただ、ファンにしては鋭い眼光が異彩を放っていた。
オヤジさんは高校野球の指導者として甲子園まであと一歩のチームを育て上げた。しかし、大会直前、ある事件に巻き込まれ、責任をとってチームを去った。そんな噂を少しだけ耳にした記憶がある。当時、オヤジさんは飲食店を経営し、仕入れの帰りに土手に立ち寄り、静かに応援していた。
ストレート、変化球をアウトローにきっちり投げ込めば抑えることができる。それを信じ、一心不乱に投げ込んでいた。とその時「いいでんよ!いいでんよ!そのアウトコース打てんでん(・・)よ(・)」
グランドに散らばった部員のムダで意味のない大声に周囲の言葉はかき消されたものの、オヤジさんの声だけはなぜか優しく耳に飛び込んでくる。
「いいでんよ〜!」
いつの頃からかオヤジさんは土手から降り、私のすぐ後ろで囁くようになった。
「いいでんよ〜!!」
どんなに疲れていても、多少の雨だろうが、その落ち着いた腹の底から発する低い声に励まされる毎日が続いた。
余談であるが、ボールを受けながら聞いていたキャッチャーは「大したボールじゃないのになんでそんなに褒めんのかなぁ〜?」と訝しげな表情を浮かべていた。
今までの人生の中でどんな時が嬉しかっただろうか。どんな時にやる気を起こしただろうか。それはやはり誉められた時であり、前向きな言葉をかけられた時である。人は誉められれば、半ば冗談と分かっていてもなぜか悪い気はしない。
「子どもが伸びる声かけ」(辻秀一著)によると、人間の心の状態にはフローとノンフローがあるという。ご機嫌=フロー状態とは気分がよく、楽しく、充実感を得られている状態をいう。不機嫌=ノンフローとは落ち込んだり、イライラしたり、心が乱れている状態をいう。心の状態は声かけや出来事などによってフロー状態かノンフロー状態かに振り分けられるという。
私は正にフロー状態で練習を続けていたのである。これはどんなに激しいトレーニングよりもパフォーマンスの向上に欠かせない重要な要素である。
今、指導にあたりこのことを忘れてはいけない。子ども達の体調はどうか。肩肘は痛くないか。心はノンフロー状態になっていないか。もしノンフロー状態を感じたらどんな声かけをしたらいいのだろうか。
私は、練習開始前に指導陣を集めてこう話しかける。「我々がフロー状態じゃないと選手の心はフロー状態にならない。その結果、上達しないし、ケガをさせてしまうことになる」
オヤジさんとは4代目ミスタータイガース掛布雅之氏(現HANSHIN LEGEND TELLER)の父泰治氏である。自らが手の届くところにあった甲子園の夢を息子雅之に賭けた執念があの言葉に凝縮されていたことを、その時私は知らなかった。
24/Oct./2020 By 佐藤 繁信